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ゆうとく薬局
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目次

はじめに
第一章 原始時代
 第一節 先史時代の五島
 第二節 縄文式文化人
 第三節 弥生式文化人

第二章 古代史
 第一節 遣唐使と五島

第三章 中世史
 第一節 松浦一揆と青方氏
 第二節 宇久氏の五島統一

第四章 五島藩史
 第一節 倭寇と海外貿易
 第二節 玉の浦納の乱
 第三節 朝鮮の役と大浜主水上訴事件
 第四節 藩士の序列決定
 第五節 島原の乱起こる
 第六節 異国船封鎖と参勤交替
 第七節 寛政年間の領内事情
 第八節 富江藩分知
 第九節 石田城築城
 第十節 富江藩騒動

第五章 漁民の生活相
 第一節 網漁の時代的変遷
 第二節 釣漁師たちの活躍
 第三節 鰹漁の変遷
 第四節 捕鯨業の起源とその後
 第五節 五島珊瑚の顛末
 第六節 漁師たちの縁起
 第七節 製塩業者の起源

第六章 農民の生活相
 第一節 伐採と開墾
 第二節 農耕と野獣
 第三節 検地と年貢
 第四節 甘藷の伝播
 第五節 土づくり農民魂

第七章 宗教と生活
 第一節 遊行僧と民間信仰
 第二節 地蔵と霊験信仰
 第三節 キリスト教の伝来
 第四節 キリスト教の復活
 
第八章 五島概念
 第一節 流人の島五島
 第二節 交易と交通
  ○海上交通 ○陸上交通
 第三節 教育の草創期

第九章 人口推移と地域集団
 第一節 福江直りと城下町
 第二節 五島の地域形成
 ◎奥浦掛 ◎崎山掛 ◎本山掛 大浜掛
 ◎久賀掛 ◎椛島掛 ◎富江町 ◎岐宿町
 ◎三井楽町 ◎玉之浦町 ◎奈留町 ◎若松町
 ◎奈良尾町 ◎上五島町 ◎有川町 ◎新魚目町

第十章 風俗習慣
 第一節 年間行事
 ◎正月行事 ◎二月行事 ◎三月行事 ◎四月行事
 ◎五月行事 ◎六月行事 ◎七月行事 ◎八月行事
 ◎九月行事 ◎十月行事 ◎十一月行事 ◎十二月行事
 第二節 生涯行事
 ○結婚 ○葬式 ○建築 ○船おろし ○子供の遊びいろいろ

資料編
●五島家系譜
●富江藩五島家系譜
●戸口調査票
●五島史年表

第一番 竺和山霊山寺  本山村  明星院
  霊山の釈迦のみまえにめぐりきて
        よろずの罪もきえうせにけに
第二番 日照山極楽寺  明星院  護摩堂
  極楽の弥陀の浄土へゆきたくば
       南無阿弥陀仏くちぐせにせよ
第三番 亀光山金泉寺  三尾野  来光坊
  極楽の宝の池を思えただ
      黄金の泉澄みたたえたる
第四番 黒巌山大日寺 明星院 行者堂
  ながむれば月白たえの夜半なれや
       ただ黒谷のすみぞめのそで
第五番 無尺山地蔵寺 吉田郷 地蔵堂
  六道の能化の地蔵大菩薩
      みちびき給えこの世のちの世
第六番 温泉山安楽寺 久木山 鎮守堂
  かりの世に知行あらそうむやくより
       あんらく国の守護をのぞめよ
第七番 光明山十楽寺 久木山 地蔵堂
  人間の八苦を早くはなれなば
       いたらんかたは九品十楽
第八番 普明山熊谷寺 三番町 地蔵堂
  たきぎとり水くま谷の寺にきて
       難行するも後の世のため
第九番 正覚山法輪寺 二番町 地蔵堂
  大乗のひぼうもとがもひるがえし
         転法輪の縁とこそきけ
第十番 得度山切幡寺 一番町 地蔵堂
  よくしんをただひとすじに切幡寺
       のちの世までの障りとぞなる
第十一番 金剛山藤井寺 新二番町 地蔵堂
  いろも香も無非中道のふじい寺
       真如の波のたたぬ日もなし
第十二番 摩盧山焼山寺 新一番町 地蔵堂
  のちの世を思えばくぎょう焼山寺
       死出や三途の難所ありとも
第十三番 大栗山大日寺 大工町 地蔵堂
  阿波のくに一の宮とやゆうだすき
      かけてたのめやこの世のちの世
第十四番 盛寿山常楽寺 鍛冶屋町 地蔵堂
  常楽の岸にはいつかいたらまし
       ぐぜいの船にのりおくれずば
第十五番 法養山国分寺 唐人町 明神堂
  薄く濃くわけわけ色を染めぬれば
         流転生死の秋のもみじば
第十六番 光燿山観音寺 唐人町 地蔵堂
  わすれずもみちびきたまえ観音寺
         西方せかい弥陀の浄土へ
第十七番 瑠璃山井戸寺 樫河 地蔵堂
  面影をうつしてみれば井戸の水
       むすべば胸のあかやおちなん
第十八番 母養山恩山寺 松山 地蔵堂
  子をうめるその父母の恩山寺
       訪ぶらいがたきことはあらじな
第十九番 橋池山立江寺 大月山 大月堂
  いつかきて西のすまいのわがたつえ
      ぐぜいの船にのりていたらむ
第二十番 奥の院慈眼寺 大月山 大月堂
  あまとおや鶴の奥山おくたえて
       願う攻力に法ぞかよわん
第二十一番 舎心山太竜寺 戸楽 地蔵堂
  大竜のつねにすむぞやげにいわや
       舎心開持はしゆごのためなり
第二十二番 白水山平等院 中山 軽成院
  平等にへだてのなきときくときは
       あらたのもしき仏とぞみる
第二十三番 医王山楽王寺 向町 地蔵堂
  みな人のやみぬるとしの楽王寺
       瑠璃の楽をあたえまします
第二十四番 室戸山最御崎寺 水主町 観音堂
  明星のいでぬるかたのひがしでら
       くらき迷いはなどかあらまし
第二十五番 宝珠山津照寺 奥町 地蔵堂
  のりのふねいるかいずるかこの津寺
       迷うわが身をのせてたまえや
第二十六番 竜頭山金剛頂山 宗念寺
  往生にのぞみをかくる極楽は
       月のかたむく西寺のそら
第二十七番 竹林山神峰寺 宗念寺大師堂
  みほとけの惠のこころ神峰
    山もちかいも高き水音
第二十八番 法界山大月寺 中野 長善寺
  つゆしもとつみをてらせる大月寺
    などかあゆみをはこばざらまし
第二十九番 摩尼山国分寺 観音寺
  国をわけたからをつみてたつ寺の
      末の世までの利益のこせり
第三十番 妙色山安楽寺 大円寺
  人多くたちあつまれる安楽寺
       むかしも今もさかえぬかな
第三十一番 五台山竹林寺 上大津 地蔵堂
  なむもんじゅ三世諸仏の母ときく
       われも子ごころ乳こそほしけれ
第三十二番 八葉山禅師峰寺 三尾野 地蔵堂
  静かなるわがみなもとのぜんじぶじ
       うかぶ心は法のはやぶね
第三十三番 高福山雪蹊寺 辰ノ口観音堂
  旅のみちうえしもいまは高福寺
       のちのたのしみ有明の月
第三十四番 本尾山種間寺 清浄寺
  世のなかにまける五穀の種間寺
       ふかき如来の大悲なりけり
第三十五番 医王山清滝寺 神宮寺
  澄む水をくめば心の清滝寺
       波の花ちる岩の羽衣
第三十六番 独鈷山青竜寺 長手 地蔵堂
  わずかなる泉にすめる青竜は
       仏法守護のちかいとぞきく
第三十七番 藤井山岩本寺 崎山 大通寺
  六つのちり五つのやしろあらわして
       ふかき仁井田の神のたのしみ
第三十八番 蹉蛇山金剛福寺 大浜 来迎院
  補蛇落やここは岬の船のさお
       とるもすつるも法のさだやま
第三十九番 赤亀山延光寺 元 西光院
  南無薬師しよびよう悉除の願なれば
       まいるわが身をたすけたまえよ
第四十番 平城山観自在時 堤郷 地蔵堂
  心願や自在の春に花さきて
       浮世のがれてすむやけだもの
第四十一番 稲荷山竜光寺 増田 地蔵堂
  この神は三国流布の密教を
       守らせ給う誓とぞきく
第四十二番 一(王果)山仏木寺 高田 地蔵堂
  草も木も仏になれる仏木寺
       なお頼もしきちくにんてん
第四十三番 源光山明石寺 野中 慈光院
  きくならく千手ふしぎの力には
       大ばんじやくもかろくあげ石
第四十四番 菅生山大宝寺 籠渕 毘沙門堂
  いまの世は大悲のめぐみ菅生山
       ついには弥陀のちかいをぞまつ
第四十五番 海岸山岩屋寺 小田 地蔵堂
  だいしようの祈るちからのげに岩屋
       いしの中にも極楽ぞある
第四十六番 医王山浄瑠璃寺 六方 地蔵堂
  極楽の浄瑠璃世界たくらえば
       うくる苦楽はむくいならまし
第四十七番 熊野山八坂寺 平蔵 観音寺
  花をみて歌をよむ人は八坂寺
       さんぶつじょうの縁とこそ聞け
第四十八番 清滝山西林寺 樫ノ浦 観音寺
  弥陀仏の世界をたずねゆきたくば
       にしのはやしの寺にまいれよ
第四十九番 西林山浄土寺 奥浦 栄林寺
  十悪のわが身をすてずそのままに
       浄土のてらにまいりこそすれ
第五十番 東山繁多寺 戸岐浦 地蔵堂
  よろずこそ繁多なりとも怠らず
       諸病なかれとのぞみいのれよ
第五十一番 熊野山石手寺 戸岐ノ首 地蔵堂
  西方をよそとはみまじ安養の
       寺にまいりてうくる十らく
第五十二番 滝雲山太山寺 唐船浦 地蔵堂
  太山にのぼれば汗のいでけれど
       後の世おもえばなんの苦もなし
第五十三番 須賀山円明寺 岐宿 金福寺
  来迎の弥陀のひかりの円明寺
       てりそうかげは夜な夜なの月
第五十四番 近見山延命寺 岐宿 地蔵堂
  くもりなき鏡のえんとながむれば
       残さずかげをうつすものかな
第五十五番 別宮山南光坊 白石 地蔵堂
  このところ三島の夢のさめぬれば
       別宮とてもおなじすいじゃく
第五十六番 金輪山泰山寺 渕ノ本 地蔵堂
  みなひとのまいりてやがて泰山寺
       らいせの引導たのみおきつつ
第五十七番 府頭山栄福寺 大川原 地蔵堂
  この世には弓矢を守る八幡なり
       らい世は人を救う弥陀仏
第五十八番 作礼山仙遊寺 三井楽 良永寺
  たちよりて作礼の堂にやすみつつ
       六字をとなえ経をよむべし
第五十九番 金光山国分寺 浜栗里 行者堂
  守護のため建ててあがむる国分寺
       いよいよめぐむ薬師なりけり
第六十番 石鉄山横峰寺 竃郷(浜の栗) 行者堂
  たてよこに峰や山べに寺たてて
       あまねく人をすくうものかな
第六十一番 栴檀山香円寺 柏郷 地蔵堂
  後の世を思えばまいれ香円寺
       とめてとまらぬ白滝の水
第六十二番 天養山宝寿寺 丑の浦 地蔵堂
  さみだれのあとに出でたる玉の井は
      白坪なるや一の宮かわ
第六十三番 密教山吉祥寺 梅津 地蔵堂
  身の内のあしきひほうをうちすてて
       みな吉祥をのぞみいのれよ
第六十四番 石鉄山前神寺 丹奈 観音堂
  前は神うしろは仏ごくらくの
      よろずの罪をくだくいしづち
第六十五番 由霊山三角寺 山内 通福寺
  おそろしや三つのかどにもいるならば
       こころをまろく慈悲を念ぜよ
第六十六番 巨亀山雲辺寺 山内 薬師堂
  はるばると雲のほとりの寺にきて
       月日をいまはふもとにぞ見る
第六十七番 小松尾山大興寺 井出関 地蔵堂
  うえおきし小松尾でらを眺むれば
      のりの教えの風ぞふきぬる
第六十八番 琴弾山神恵院 松山 地蔵堂
  笛の音も松吹く風も琴ひくも
       歌うも舞うも法りのこえごえ
第六十九番 七宝山観音寺 山内坂上 地蔵堂
  観音の大悲のちから強ければ
      重きつみをも引きあげてたべ
第七十番 七宝山本山寺 山内高田 地蔵堂
  もとやまに誰がうえたる花なれや
       春こそたおれたむけにぞする
第七十一番 剣五山弥谷寺 山内柿ノ木場 地蔵堂
  悪人とゆき連れなんもいやたにじ
       ただかりそめもよき友ぞよき
第七十二番 我拝師山曼荼羅寺ウツボギ 地蔵堂
  笠はありその身はいかになりぬらん
       あわれはかなきあめがしたかな
第七十三番 我拝師山出釈迦寺 二本楠 地蔵堂
  まよいぬる六道衆生すくわんと
       とうとき山にいずる釈迦寺
第七十四番 医王山甲山寺 富江 寶性院
  十二神みかたにもてるいくさには
       おのれと心かぶとやまかな
第七十五番 五岳山善通寺 富江 瑞雲寺
  われすまばよも消えはてじ善通寺
       深きちかいの法のともしび
第七十六番 鶏足山金倉寺 富江 妙泉寺
  まことにも神仏僧をひらくれば
       真言加持のふしぎなりけり
第七十七番 桑多山道隆寺 富江 実相寺
  ねがいをば仏道隆にいりはてて
       菩提の月を見まくほしさに
第七十八番 仏光山郷照寺 上ノ平 地蔵堂
  踊りはね念仏となうどうじょう寺
       拍子をそろえ鐘をうつなり
第七十九番 金華山高照院 幾久山 天福寺
  じゅうらくの浮世のなかをたずぬべし
       天皇さえもさすらいぞある
第八十番 白牛山国分寺 小川 地蔵堂
  国を分け野山をしのぎ寺々に
       まいれる人をたすけましませ
第八十一番 綾松山白峰寺 小川原 地蔵堂
  霜さむく露しろたえの寺のうち
       み名をとなうるのりの声々
第八十二番 青峰山根香寺 中須 地蔵堂
  よいのまのたえふる霜のきえぬれば
       あとこそ鐘の勤行のこえ
第八十三番 神豪山一の宮寺 荒川 寶泉寺
  讃岐いちのみやのみまえにおうぎきて
       かみの心をたれかしらゆう
第八十四番 南面山屋島寺 荒川 地蔵堂
  梓弓やしまの寺に詣でつつ
       祈りをかけて勇志もののふ
第八十五番 五剣八栗寺 玉之浦 西方寺
  ぼんのうを胸の智火にて八栗をば
       修行僧ならでたれか知るべき
第八十六番 補陀落山志度寺 玉之浦 観音堂
  いざさらば今宵はここに志度の寺
      祈りの声を耳にふれつつ
第八十七番 補陀落山長尾寺 大宝寺 護摩堂
  あしびきの山鳥の尾の長尾寺
       秋の夜すがらみ名をとなえて
第八十八番 医王山大窪寺 大寶寺
  南無薬師諸病なかれとねがいつつ
       まいれる人は大窪の寺
 
 平山徳一氏(故人)の『五島史と民俗』の再版されることになりました。氏は、この島をこよなく愛し、生前は「ごとうアイランドプレス」をはじめとする私たちの活動にも多くの助言をいただきました。
 ここでご紹介いたしました文章の中にも含まれていましたが、この島で生きていく若者に対するメッセージに溢れた著書になっています。今、この島は大きな転換期を迎えています。できるだけ多くの若者に読んでいただき、これからの方向性のヒントをつかんでいただければと思います。(発行人 平山匡彦)
 

「生きる」

 大連港は満杯だから、ウラジオストクから帰国させる。

 不安と焦燥が交錯する関東軍の兵士を乗せた列車は、秋の広漠たる満州の荒野を、北へ向かってひた走る。

 武装解除されて、戦意をなくした兵士の顔は、帰国すると言っても、どの顔も暗い。

 海域の収容所を出発してから三日目のことである。「ここはシベリアだぞ」誰かの悲痛な叫びが車内を走り抜けた。

 貨車の隙間から外を覗くと、確かに列車は夕日に向かって逃げるように走っている。

 その瞬間、帰国の夢がぷっつり断たれた。

 地団太踏んで悔しがったが、すべて後の祭りである。列車の扉を閉めると、車内は昼でも穴蔵のように暗い。虚脱状態になった兵士たちは、昼夜を分たずただ眠るだけである。

 もちろん、車内には用便の設備などあるはずがない。

 用便を足すには、ソ連兵の厳重な監視のもとに、僅かな停車時間を利用するしかない。

 列車は十日ぐらいも走ったろうか、人里はなれた山奥に静かに止まった。

 「全員下車」との命令が下った。聞くと、ここはバイカル湖の近くで、今日からここで伐採作業に従事するのだと言う。

 茫然自失したわれわれは、その晩は、山に捨てられた子猫の群れのように身を寄せ合って寝た。ソ連に連行されて強制労働させられると、誰が予見していたであろうか。

 冬将軍の予兆か、シベリアの空は鉛色に低く垂れ、今にも寒波が襲いかかりそうである。

 昼夜兼行で校倉式の住まいを構え、ただちに伐採作業が開始された。

 十月末には早くも高原に雪が舞い、一夜にして一面、銀世界となった。

 大鋸と斧を担いで雪の中を、一列になって山へ登っていく黒い線は、もはや戦士でなく、ただの行路病者群れでしかない。

 これが、かつての精鋭、関東軍のなれの果てかと思った瞬間、じっと耐えていた涙が、滝のように頬を流れ落ちた。

 シベリアの冬はきびしい。

 ましてや、マローズと呼ばれる寒波が襲ってくると、大気中の水蒸気が凍り、それが微細なガラス繊維の屑のようになって、空中に、ちらちらと浮遊する。こんな厳寒に石をたたくと、金属音みたいな音を発する。

 俗に、このことを「音が凍った」と、言って捕虜たちは驚嘆する。

 このような寒さでも、作業は休まない。

 鉄道沿線から少し奥へ入ると、シベリア松の原始林が密集した竹林のように林立しており、「おれは、君たちには切られないぞ」と言わんばかりに覆い被さってくる。

 それを二人ひと組で、十二リウベがノルマであった。

 捕虜たちは、年中飢えていた。

 それも、「ひもじい」とか、「何か食いたい」とかいうような、生やさしいものではなかった。

 食事が終ったときから空腹を感じていて、何でもよいから腹いっぱい食えたら、今死んでもよい、とさえ思っているのである。

 国際法で言う捕虜のカロリーの需給は、どこでどうなっているのか、手もとに届くときは、一片のパンと、加薬一つ入っていない、顔が写るようなスープ一皿だけである。

 ガチャ、ガチャと、炊事当番が運ぶ食缶の音が遠くにすると、部屋は一瞬、しんと静まりかえって、闇に光る梟のような目が、その音を追う。配給が始まると途端、騒然となり、

「パンは棒ばかりで計れ」

「スープは缶の底から掻きまぜろ」

などと、悲鳴にも似た叫びが室内を飛び交う。

 まさに、地獄絵そのものである。

 木こりの三升めしと言われるように、伐採作業は腹が減る。

 昼食のパンは、朝食と一緒に支給されるのだが、そのパンを昼まで持ちこたえる余裕は餓鬼どもにはない。朝食と一緒に腹に入れて、一瞬でもよい、満腹感を覚えればそれでよい。

 山では雪でも頬張って耐えるのである。

 餓鬼は、捕虜たちから労働力、人間としての誇り、理想、思いやりなど道徳の一片も残さず捥ぎとってしまった。

 もし何かが残されているとすれば、それは自己保存の本能だけであった。

 疲労困憊した身体を、焚火のそばに横たえていると、ソ連の監視兵がやってきて、いきなりその焚火を足で蹴ろうとして「ダワイ、ダワイ」と、仕事に追いやる。

 「こん山猿!」怒なりつけて噛みするのだが、囚われ人の悲しさ、捕虜の気持が彼らに通じるはずがない。星を眺めて男泣きをするだけである。もし、抵抗でもするものなら、「シベリア松の肥やしになりたいか」と、言われんばかりに、容赦なく担いでいる銃が火を吹くだけである。

 普通の監獄ならまだ刑期があって、一定の期間が過ぎれば釈放されるという望みがあるが、シベリアの捕虜には、刑期もなければ、生還できるという保障は、どこにもない。

 同僚が、次から次と倒れていくなかで、

 「今日もどうやら生き延びた」

 「明日も、生きなけりゃ」

 毎日が生との闘いに明け暮れるのである。

 熊本県の増井は、生きる自信をなくして、曖昧な笑みを漂わせながら、倒木めがけて飛び込み自殺をした。岩手県の梶原はただ一言、「アンコロ餅が食いたい」と、口をぱくぱくさせながら、黄泉へと旅立っていった。

 思えば歴程を超えて、シベリアでの悲劇が走馬灯のように蘇ってくる。

 無慈悲なシベリアにも、五月になると春の女神が訪れて、いっせいに草木が芽を吹く。

 冬期に蚊の足のように痩せ細っていた餓鬼どもが、「牛馬が食べるものなら何でも食べるんだ」と雑草、木の芽、幼虫など競って探して歩く。好き嫌いなど言ってはおられない。

 しかし、食べると言っても、調味料なしの水炊きでは、喉元を通すのは容易ではない。

 さいわいシベリアは岩塩の宝庫らしく、たまには岩塩を満載した列車が、近くの駅に停車しているとの情報が舞い込む。

 それを耳にした捕虜たちの目の色が変わる。

 疲れた足を引きずって山を降り、生命を賭して列車に夜襲をかけるのである。

 

 帰国してから間もなくのことであった。

 当時、教育委員だった野下神父を司祭館に訪ねた。雑談のなかで、

 「神父様、人間は無一物になっても塩さえあれば、生きながらえますね」と、私がソ連での塩との出会いを語りかけると神父は、

 「あなた達は血の塩となって、社会に愛と真理の味をつけ、人びとを社会悪から守り、真の平和と幸福な社会建設のため生命力となるようにとキリストが弟子達に諭した」という聖書の紹介をしてくれた。

 この言葉に触れた瞬間、信者でもない私の平板な魂の遍歴に、強烈な衝撃を受けたのであった。それ以来「血の塩になりたい」という言葉が、私の座右の銘となって魂にこびり付いてはなれないのである。

 

 シベリアに抑留されてから二か年半が過ぎた初夏の、昼下がりのことである。

 「ヒラヤマ!! 山から降りてこい」誰かの声が、犬の遠吠えのように尾を引いて山にこだました。

 「もしかしたら帰国できるかも」一縷の望みに胸をふくらませて、急いで山を降りた。

 収容所に戻った時は、すでに病弱で作業を休んでいる二十名ほどの同僚が服装検査の最中だった。

 後尾にいる前原に「帰国か?」と聞いてみたが「わからん」と言う。

 虚偽と欺瞞が満ちている地獄だけに、聞くこと事態が野暮である。

 服装検査が終わると待期していたトラックに乗せられて駅に向かった。列車はどこへ行くとも告げず、東の方角へ向いて発車した。

 車内には、シベリアの奥から連行されてきたのか、多く捕虜たちが鰮の目刺しを乾したように、すし詰めになって寝ている。

 「少し席を譲ってくれないか」と、頼んでみたが、眠ったふりをして身動きもしない。

 列車は、恐ろしくだだっ広い、地球の余白みたいな高原を、ごうごう唸りながら、東へ東へと走る。二昼夜は走っただろうか。列車は、嫌な軋む音を立てて、夜の駅に停まった。

 錆びついた重い扉が開いた。

 久しぶりに見る街灯の光がまばゆい。

 「ヒラヤマが乗っているだろう。すぐに降りてこい。」暗がりから発するその声は、まさに閻魔のどら声である。

 その瞬間、帰国の夢がぷっつり切れた。

 三人のアクチブに曳かれて歩くこと三十分、深い闇の向こうには、巨大な生きもののように息づいた収容所が、ぼんやり浮かんで見える。

 

 「ここはどこですか」と、尋ねると、

 「ここはチタだ」と、若者は言う。

 チタの収容所と言えば、ソルジェニーツィンの著書「収容所群島」のひとつで、捕虜たちに最も恐れられている収容所である。

 なぜ、私がチタの収容所に送還されてきたのか、その理由は未だに不明である。

 もし理由があるとすれば、伐採作業大隊のノルマが不十分と言う廉だったかもしれない。と、思ったりしている。

 チタ収容所の周辺には、有刺鉄線が張りめぐらされ、柵の四隅の望楼には、マンドリンのような自動小銃を担いだソ連兵が、厳重に警戒している。

 壁には「天皇制打倒」、「反動分子を帰国させるな」などと書かれたポスターが、所狭しと貼ってある。そのポスター一枚一枚が、「ここがきさまの墓場だぞ」と、いわんばかりに、強烈に私に迫ってくる。

 捕虜のどの顔を見ても餓鬼面をしている。

 「ここの収容所は、厳しいだろう」と、尋ねても振向きもしない。

 地獄は言葉が通じないのである。

 スターリンは、自国の多くの政治犯を反動分子として、容赦なく粛清したという。

 特に一九三六~三八年の粛清は、ソ連国民をして恐怖に巻きこんだと言われている。

 だから、日本軍捕虜を虐待するくらい屁の河童だったに違いない。

 チタでは毎日のように、民主運動と稱して、人民裁判が行われていた。

 誰かがステージの上に曳き出されて、リンチを受けるのである。

 その対象は主として特務機関、憲兵、将校などであったが、油断は禁物。誰もが時間待ちという状態である。リンチは捕虜たちに見せしめに、夕食後に食堂の大広間で実施する。

 リンチが始まると、食事をしている捕虜たち全員が、箸をおいて矢玉のように野次を飛ばす。

 「その嘘つきに泥を吐かせろ」

 「その反動分子は帰国させるな」

 このような野次は、勝者への迎合というより、権力者に対する、へつらいの典型ともいうべきものであった。被告はと見ると、まさに屠殺場に曳き出された子羊のように、黙念と首を垂れ、なすがままである。

 若いアクチブたちは面白そうに、三~四人で間断なく詰問する。

 「貴様は、牡丹港で匪賊に食料を与えたという口実をつけて、無実な飯店の主人を殺したではないか。」

 「貴様は、東安で善良な農民を密偵にまつりあげて、拷問にかけたではないか」という調子である。それが事実無根であっても、彼らが描いた青写真どおりに事が運ばなければ幕は降りないのである。だから嘘でも

 「はい、そうです」と言って、最後は土下座して謝罪するのである。

 ここは、正義を論ずる場所ではなかった。

 民主運動は、作業の合い間の僅かな時間も浪費することなく食い込んできて、ソ連三十年史を中心に、グループ討論を実施する。

 それは、捕虜たちがどれだけ共産主義に洗脳されているか、一種のテストである。

 もし、発言でもしなければ

 「勉強不足だ、まだ帰国したくないのか」と、怒なられるか、人民裁判に廻わされるのがおちである。たまにアクチブが、封建(フウケン)とか、幕府(マクフ)と言った紛らわしい言語を用いて、共産主義の講義をする。

講義が終わると、そばに居るアクチブが、

「資本主義の矛盾が理解できたか」と念を押す。すると、半ば手を揚げて、

 「はい、わかりました」と、老将校はさりげなく答える。そうでも言わなければ、「勉強不足だ。まだ日本に帰る資格なし」と、若僧に怒なられる。

その光影は、あまりにも悲しい生死の岐路に立たされた、やりきれない人間の無様だった。

民主運動は、ソ連製であることは一点の疑念もなかったが、しかしその実態は、きわめて日本的なもので、その醜態はおそらく、ソ連側の予想を超えたきびしいものであったろう。

アクチブとは積極分子のことで、二~三ヵ月間の講習期間を経て、民主グループのリーダーになる資格を取得した若い日本軍捕虜のことである。

さいわい、私は人民裁判の被告席に座ることだけは免れたが、チタの収容所で私が痛感したことは、民主運動と稱する思想の独善に妄信する権力の恐ろしさと、生への執着から来る無気力、便乗主義、裏ぎりといった、人間のあさましさであった。

 

地獄に落ちていた三年は長かった。

多くのドラマを演じながら、命からがらナホトカの港から乗船したのは、蝉の声が降るような真夏の日暮れどきだった。

夕映えが血のようにぐわぐわと盛り上がった、ナホトカの山々が、シルエットの切り絵のように浮かび上がって見えた。私は、船のデッキにもたれて、心ゆくまで泣いた。

その涙は、帰還できると言嬉し涙でなく、虐げられた悔恨の涙であり、自分を見失った慙愧の涙であった。

 

あれから半世紀に亘って、私は何かの形で社会教育という聖職に身を置いてきた。

社会教育と言えば人間形成、社会形成を主眼とした学校外教育のすべを範疇においた広範なものである。

特に「社会教育の歴史は、民主主義の歴史でもあった」と言われるほどに、戦後の社会教育は、民主主義の普及に力点がおかれた。

また、食うものもない混乱の時世に人びとは、パンを求めてがむしゃらに生きた。

パンが豊かになると今度は、パンだけでは生きられないことを、誰もが認めるようになった。いわゆる心の豊かさを求めはじめたのである。これらの世態のすべてに社会教育は関与していて、困難だからといって避けて通ることは許されない。この聖職に餓鬼だった私が地獄の延長線上で従事したのだから、これまた不思議な因縁である。前世から定まっていたのであろうこの運命に感謝しながら私は、社会教育にしがみついて離れなかった。

しかし人間は半世紀の長い間同職にたずさわっていると、倦怠もあれば挫折もある。

すると、どこからともなく

「挫けちゃいかん。頑張れ」と、私の耳朶に、叱咤とも激励ともつかぬ声が響くのである。その声なき声は、間違いなくソ連で涙をこらえた時、怒りを押さえた時、屈辱に耐えた時深く根を張った「生命の根」から発する声であった。だから、私の社会教育感は、他人を指導するという傲慢なものではなく、餓鬼の私自身が社会の教育の力を借りて、一日も早く人間回復をはかりたいという願望から生まれたものだった。

人生の流れは、他人の言葉が羅針盤になって、何気なくその方向へ変わることがあるかと思えば、わが人生に輝きを添える言葉だった、と後で気がつくこともある。

たとえば「人間は自分のためでなく、他人のために生きるものだ」という言葉など、今もなお貴重な宝となって、私の体内に息づいている。

 

過去を回顧すると、私の人生も起伏の激しい人生だった。さて、今後「どう生きるか」「どう死ぬか」だが、ふと気づいてみたら、早くも七八歳の齢を重ねていた。

後一年半で八○歳になる。

周囲を見渡すと、八○歳という年代は人生の中でも、最も険しい峠のようである。

だからといって、この峠を避けて通るわけにもゆくまい。美しく老いるには、健康、心、金の三つの条件が必要なことはいうまでもない。

しかし、健康や金はどれだけ欲しがっても、今さら、どうなるというものでもなかろう。

だけれども、中でも一番大切な心だけは、すべての人に神様が平等に与えてくれている。

だから、心だけは、その人の考えで豊かにもなれば、貧しくもなる。

下手の横好きで、私は謡曲もやるし、拙劣だが、「五島史と民俗」など、書物も四冊ほど自費出版した。

これからも、このような趣味を精一杯生かして、少なくとも心だけは豊かにして、生活を充実していきたいと思う。

さいわい、明るい選挙推進協議会など、まだ十幾つかの団体との繋がりもある。

「濡れ落ち葉が靴底にへばり付いて歩けないじゃないか」と、世間は愚痴るかもしれない。

どう言われようとも、健在である限り邪魔にならないように気をつけながら、ボランティアとして、微力ではあるが持っている力を、この世のために与え尽くしてしまいたい。

末世に旅立つとき、頭陀袋を空っぽにして歩きやすいようにである。

 

生きる目標は、百歳だ

百歳までの道程は

 そう、遠くはない

黄昏れていく陽に向かって

 燃えあがるのだ

情熱のあるところ

 年齢は逃げる

恐れ、恐れ、

 消えかけた光に

 

ソ連で根づいた生命の根が、未だに心の底に息吹いていて、常にもう一人の私に、こう呼びかけるのである。

この声なき声を、素直に受け止め、生命の根と同行二人で、八○歳の峠を転ばないよう。一歩、一歩力強く、歩いていくことにしよう。

九○歳の道程は、平坦だろうから。

 

五島新四国八十八箇所霊場(明治19年文書)

<五島史と民俗~本文より>

平山徳一著
 『五島史と民俗』

-未来を創るためには先人たちの一つ一つの足跡に今私たちが、どう答えようと試みるかが最も大切であって、現実は、追憶のぬるま湯につかって鼻うたを唄うような生易しいものではなく、島の人びとが島の歴史を忘れたとき島は斜陽化することを、厳粛に受けとめなければならないからである。

 現在には、縦の軸としての時間と歴史的な感覚があり、横軸には無限の空間と地理的条件があって、人間はいや応なしにその縦横の接点に生き、その制約からのがれることはできない。だから若者たちは今、後ろ鏡と前鏡の合わせ鏡に五島の未来像を写し出して島おこしに懸命である。

 -中略-

 しかし島を去ったすべての人が魅力を失ったわけではない。なかには都の空が黄昏てくると西空に郷愁を潤ませ、ほろ酔いきげんで島を自慢するものもいるはずである。

 その残された島の灯を消さないよう、時世の大きなうねりの中で島の若者たちは郷土愛に燃えているのである。

 島の若者たちは資本を引き出すことの大切さも知っているし、その前に島民のアイデアを引き出すことがもっとも大切であることも自覚している。また離島振興法ができたから島がよくなるのでなく、島がよくなろうとするとき、法が生きることもよく知っている。

 だから若者たちの血潮がおどるのであって、その若者たちの魂を刺激するような応援歌はないものだろうかと、思いついたのがこの度の推こうであった。-(はじめにより)-

「五島史と民俗」平山徳一著 3,980円(税込)
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